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青山真治は、映画作家である。この、一見、実にシンプルに感じられる命題には、しかし、実のところ、いくつもの疑問と迷いと反論とがその内部に包含されている。まず、映画作家であるとはどういうことか。それはもちろん、一本の映画作品に対して、その作者であることの宣言を意味している。これがいかに反時代的な試みであるかについては、もはや、あらためて再検討するまでもないだろう。今日、映画作家を名乗ることは、それだけである困難を引き受けるということでもあるのだ。そして、青山真治は、現在活躍する世界の映画作家たちの中に置いても、その誰よりも強く映画作家であろうと自ら望んでいるかのように見える。これは、かなりやっかいな事態だと言って良いだろう。しかし、困難はそれだけではないのだ。
青山真治の映画は、欠落と欠損によって特徴付けられる。たとえば、『Helpless』の中で、 あるいは最新作『サッド
ヴァケイション』の中で、主人公健次のもとにある苦さとともに回帰してくる松村の片腕を思い出してみよう。あるいは、『冷たい血』の石橋凌が演じた主人公から、手術によって摘出された肺の片側をあげても良いだろう。青山作品は、常に、欠落と欠損によって刻印され、そして欠落とは、その本来のありようそのままに、埋められること・縫合されること・完全なものとなることを希求し続けるのだ。そして、それがどんなに完全なユニティとして達成されようと、それでもなおそこに欠損を見いだし、さらなる高次元での統合を要求し続けることこそが、青山真治の映画にとって、根源的な動力として作用してもいる。ここでしかし、映画作品を間に挟んだ、映画作家とその観客の関係としてこの話を比喩的に移行させてみた場合、どうやらわたしたちは、やや面倒な事態に巻き込まれたと言っても良いだろう。すなわち、欠落は承認への要求を常に喚起させるからだ。青山作品は、その本源的なありようにおいて、常に自らの絶え間ない承認と全肯定をわたしたちに突きつけているからである。
だが、一本の映画に対して、その作者として自らの名前を刻印しようと試みることが、一人の人間に許された権利であるとするならば、その作品に対して、それを部分的に肯定することもまた、一人の人間に許された十全たる権利であるに違いない。青山真治を部分肯定すること。これは、観客であるわたしたちにとって、自らの権利を最大限に行使することであり、あるいはそれ以上に、大いなる楽しみとして存在してもいるだろう。 たとえば、『チンピラ』の海を『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の海の隣に並べてみること。『EUREKA』で川を流れていた下駄を、『レイクサイド
マーダーケース』で蛾を踏みつぶした靴の傍らに置いてみること。すなわち、青山真治という一人の映画作家の名前の前で、とまどい、迷い、ためらい、そしてそこから新たな結びつきと飛躍と切断を見いだすこと。名前の前には何があるか。それを「暁」だと答えたのは、ブニュエルでありゴダールであった。いま、わたしたちは青山真治という名前とともに、再びその疑問へと引き戻されているだろう。いったい、名前の前には何があるのだろうか?
大寺眞輔(映画批評家)
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