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2004年深秋のある日、いきなり突然、CIENMA
ENCOUNTER SPACEに吉田喜重監督と岡田茉莉子ご夫妻に取材をするかというお誘いをナナゲイ(大阪十三のミニシアター「第七藝術劇場」)の松村氏より受け、11月上旬のある日、お二人にインタビューをしに行ってまいりました。
極度の緊張をこらえながらも、約一時間ほど、吉田監督と岡田さんに取材敢行。その結果はインタビュー記事本篇(先日まで当サイトにて掲載)に詳らかです。
取材班の二人(誠一・三上)の“あの時考えていたこと”、“過ぎた今だから考えること”など、エピローグにもなるのでどうぞご覧下さい。なんつって、話はどこまでも広がっていくんだなー、これが。
※この二人の会話はMSNメッセンジャーで行っています。ムダ話に近いものですのでご勘弁ください。笑って流し読みしてもらえたらこの上もなく幸いです。
三上:よっ
誠一:はい、来た
三上:『鏡の女たち』見ました。ぼんやりと。今風邪をこじらしていてですね、意識モーロとしています。
誠一:え、見たの
三上:はじめの10分をのがした。
誠一:ああ、なるほど。じゃあ、はじめの岡田茉莉子氏が家を出てバスに乗るところとか見てないのか。日傘のショットとか
三上:田中好子を発見する辺りからです。
誠一:モウロウとしていながらも見て、どうでしたか?
三上:中々不思議な印象の映画でした。でも見た人の意識に判然としないしこりのようなものを残すことを意図的に作り出そうとしていたのなら(作り出そうとしていた、と思う)それは成功してるのではなかろうか。
誠一:映画が終わった後、「いま『鏡の女たち』という映画を見た」とはっきり言えなかったりするのかしら?
三上:や、そりゃ勿論見たんだから「見た」とは言えるんだけども、わかったつもりにはなれませんねェー
誠一:でもそういうと「いや、どういうふうに見てもいいんですよ」という岡田さんの声が・・・
三上:そうそう!
誠一:ねえ、そういう意味で緊張感のあるインタビューでした。
三上:緊張感あった!どういうふうに見ても良い、ってのはこっちのさじ加減が試されるんだものー
誠一:そうそう。あの時僕たちが言いたかったのは、けっこういまの若い世代の観客っていうのはどういうものでも受け止めよう受け止めようとする物分りよい観客になろうという意識もあって、頭をかかえてしまうことになってしまうんです、と、自分のことも含めて(笑)。
でも、そうじゃなくてもっと客は傲慢でもいいけど、その代わり、映画とサシで向き合っている、というか、観て判断して発言するのはその人の責任だよ、と。
あ、でもそういう責任みたいなものにプレッシャーを感じて考え込んでしまうということでもあるのか?
早くも混乱してしまった。
三上:それは誠一さんの言いたかったこと?それとも吉田氏の考えを僕はこう汲み取った、ということ?
誠一:両方。
三上:ずるい!
誠一:いやいや(苦)でも、吉田氏からはそういう意図の発言はなかったけれども、それがなければ吉田映画って成立しないでしょう。
三上:そうね。でもそれは前衛にはどのジャンルにもどの時代にも根底にある、比較的普通のことだと思うんだけどな。
や、言葉にしてしまったら、そういうふうに聞こえちゃう。
もとい、「前衛」ってのはある時代のある芸術運動を指し示している固有名詞的な「前衛」ではなくって、文字通り今までになかった発想を持って生産的な仕事をする人って意味です。
何か「前衛」っていうとすごく偏ったイメージを持たせちゃう。辞書的な前衛。広辞苑的な前衛です。
誠一:いまの感覚だと「前衛」っていい解釈をされないよね。流行じゃないということか?わかりやすいものがウケるし。
今回の吉田喜重レトロスペクティブのタイトルは「変貌の倫理」だからこれは「前衛」(辞書的な)を言いかえているわけでもあるとも思うのですが。
こういう言葉をバシッと決めるのがやっぱり蓮實先生の悠揚迫らざるカッコ良さではないでしょうか
三上:うん。そう思う。素人にも響きがかっくいい感じもするし。
誠一:とりあえず語感の響きだけで納得できてしまう(笑)。でも、それは嘘じゃないんで、響いた人は本当に観てほしいすね。
三上:やーそうですよ。嘘じゃないもんね。
でも、話を『鏡の女たち』、つまり“ウーマン・イン・ザ・ミラー”に戻しますと、思ってた以上にストーリーがありました。ストーリーらしきものというか。
誠一:ああ、なるほど。そこもストーリーの字面だけ追っていると最後に大きくひっくり返されてしまうところなんすよね。“映画に見返される”。
でも『さらば夏の光』なんてずっーと歩いてるんだよ、男(横内正)と女(岡田茉莉子)が。
三上:そりゃーアンゲロプロス的な!ヨルゴス・アルヴェニテス的な!
誠一:キャメラワークが違うけどね
三上:そりゃあれですか、それなのに詩情溢れる豊かな映像空間を実現しているんですか?そういった類のではないんですか。
誠一:異界空間ができてます。豊かというより、制作の条件も少人数(役者を入れて総勢5、6人のクルーだったそう)でできる空間を禁欲的な態度により緊密なものにしている、というんでしょうか。
三上:不思議空間ですね?
誠一:あの、そこはやっぱり音だと思う。インタビューでは音楽家についての話がでたけど、効果音とかダイアローグの入れ方などを含めての音の設計。古代ローマ遺跡にたたずみながらナガサキのことをダイアローグで岡田茉莉子氏が語りだすと、ローマの風の音に混じって日本の夏(多分原爆が落ちた時期の)の蝉の声が・・・、という、空間がいきなりねじくれる感じが沸き起こってくる。こういうことって、いま他にやってたりする人いるかな?ゴダール以外で(笑)
(※誠一注:11月下旬に開かれた第5回東京フィルメックスのコンペ作品、『トロピカル・マラディ』(アピチャッポン・ウィラーセタクン監督・最優秀作品賞受賞)はめちゃめちゃ音の設計を微細にしてました。ちょっと方向性は違うけど)
三上:うーん。
誠一:まあ、それは置いといても
三上:お、おいておこう。
誠一:そういう見所(聞き所?)は随所にありますです。
三上:そうっすね。何かあまり代替品探せといわれたら難しいですね。
誠一:う〜ん、たとえば、吉田監督も言及するルイス・ブニュエルでも、まだそこまで高度な異空間を作り上げようとはしてなかった、と思う。ブニュエルはどっちかというとやっぱり文字(文学)的な主題からはでなかったように思うので。
三上:物語がわりあいはっきりしてるわりにはそれに寄り添って映像も音響も俳優も動いていってくれないので、戸惑います。「映画」を積極的に見せようという構造になっている。気がする。つまり、そこのバランス感覚が良いのかなと。適度なイビツさが。
物語の破綻がある線を越えてしまうと(その線は人によって違うのだけれど)、イメージの山積になるでしょ?ある時点でストーリーを理解しようとする意思を放棄しちゃうでしょ?それでももしストーリーが、あるいはストーリーらしきものがあるのなら、観客は非常な集中度が、あるいは相当の知識量や経験が要求されるわけでしょ?
そこまでじゃない気がスルンダナー。
かといってぼんやり見ていて面白いかというと、これが全く面白くないんだなー。
誠一:つまりインタビューの時に三上君が食いついていきたかったのはそういうところなわけでしょう?
三上:
そう。食いついた。頑張ってみたら、何か得る気がするんです。説明的な描写を完全には放棄していないし。きっと、数本見ても、「どこが面白いんだろう。あるいは有意義なんだろう」って思う人、いると思うんですよね。でもそう思ってしまったら、もう他のも見ちゃうと思う。もう少しみたらわかんのかなー。って。
誠一:そこはストレートに吉田氏に聞いても、吉田氏は自分はそういうことを考える場所にいるわけではないから、って。多分。
三上:うん、そういうと思う。でも受け止め手が何か考えないと、その映画を見終えてない気がするんですよね。見終えた後に。あるいは見終えたずっと後に。
誠一:そういうことで言えば、「語りの程度」というものがやはり時代とか感性の部分であるんだと思うんすよ。タイトルで見ても、やっぱり時代の匂いは存分に出てくるわけで、ストーリー語り方、映画の流れの作り方に同時代性を常にとり入れようとしているのは確かで、だから『鏡の女たち』がある側面ではわかりよい物語を持っているということは、細かい部分とか、小道具なんかでもこっちが「ああ、これをこういうふうに使うんだな」というのは判断できるからわかりよく思えるんだと思う。ティーカップとかDNA鑑定とか
三上:あ〜。なるほど。ティーカップ?そんなの出てきたっけ。
誠一:ええと、岡田氏と田中氏がお茶を飲む時に、口紅の後をぬぐうクセが同じだという時に
三上:あ〜!!あったあった!
誠一:わりかしそれだけとってみると、「べた」とも言える表現なのだけど、
三上:うん、ベタだなと思った。
誠一:もとい、何の変哲もない表現なのだけど、でもそれは何か決定的な事をストーリー的に伝えるためのものではなく、それは後でくつがえされることになる。だからそれは吉田氏の表現がべたなのではなくて、そういうものを「符号」ととってしまう人間の持っている「べたさ」が表現されている、というところまで考えが及ぶと「おお」と思うわけです。
三上:一種のコード、”記号”ってことですか。
誠一:この場合は母親が本当の子供と再会したいと思う心がそう見せたということで、そのなんでもないような事柄にもぱっと飛びついてしまったんだと。
で、僕が『鏡の女たち』を見たときは、その「符号」を(観客である)こっちも母親と同じようにとってしまったというわけなんです。人物に同化して見ようとしていた。それがモロに後でカウンター喰らう結果になったという(笑)
三上:“ヨシシゲヨシダ:彼は接近し、かくも我らを挑発し続ける「透明な知」のストイシシズムと同時代的感性を保持したアグレッシブな71歳であった!”
コピーを考えたんだが、女性週刊誌の見出しみたいになっちゃった。ヨン様。
誠一:71歳かー。
三上:それになんか全体的に、三人とも、トーンとして不自然に語るなぁと思ったんですけど、映画のストーリーに沿った上での自然な形で言葉が発せられる(まぁ、心情ですな。)台詞じゃあないだろってことが何度もあったなーと思って。映画の外にいる人(一番分かりやすいのでいえばその台詞書いた人)の思弁を登場人物に語らせてるみたく、何となく不自然な台詞(あるいは台詞まわし)が沢山あった。気がした、僕には。
不自然っていうと何か下手くそみたく聞こえるけど、そういうことではなくって。
誠一:今回はモノローグとナレーションがなかったから、まぜちゃったのでは・・・
三上:あー。
誠一:いや、これは冗談。でも、そこは「リアル」を構築しようとしていないということなのではないだろうか。「リアル」というかリアルっぽさ。
三上:そうですね、そのように感じた。
誠一:それはどの吉田作品にも当てはまるし、
三上:あ、そうかも。「リアルっぽさ」なしってのが共通してるかも。
誠一:多分僕らはオリジナルの言語や習慣などをあまり意識しないけど、海外の作家の映画とかでもそういう「リアル」からみたら不自然なものはあると思うのです。アンゲロプロスとかどうなの?
三上:そういう空間を構築しようとしていない、というね。どうなんでしょう。戦争とか出てきたりしても、トーンはすごく寓話的ですが。でも生ナマしいですよ。その、映画の中の閉じた生ナマしさ、リアリティがすごくあると思うんですけども、見終わった後に外に向かっているのではなくして、その映画の中では正解がいつまでも続いているというか。そういう生々しさ。ギリシャ語わかる人だとまた違うんでしょうね。きっと。
誠一:絶えず「はっ」とし続ける、という感じ
三上:そう、それスゴク大事ですね。
だから僕はもしギリシャに行っても、アンゲロプロスが映画に焼き付けた場所にはいけないと思うんですよね。でもすごく行きたいのに。
誠一:実際の場所は違うということ?映画の中とは
三上:や、実際にそのロケ地に行っても、「はぁ〜映画の中と同じだぁ〜」とは成らないと思う。
誠一:「追憶」ができない(笑)
三上:アンゲロ映画の風景はアンゲロ映画の中にしかないっていう意味です。
誠一:黄色いカッパを着て自転車漕いでる人もいないか
三上:あ!馬鹿にしてるな!
誠一:してない、してない!
でも、これは僕の経験の話だけど、かつて小学生ぐらいの時は、むかしのモノクロ映画に出てくる役者がどんなに有名ないい役者だといわれても「うまいか?こいつ」と思っていたことはあったな。
三上:あー何となくわかる。昔はああいうものだったのかなぁっていうね。話し方とか、今の現実とあまりにも乖離してますもんね。昔のどの映画も。
誠一:「リアル」って話に戻っちゃうんだけど、要するに、その(小学生ぐらい)頃は、現実とテレビの中しか「リアル」がないからわからないんだと思う。で、今になってみれば、映画っていうものを見だして、昔のこともわかってきて、昔の映画のこともわかってきて、自分の中で世の中の輪郭が自分なりにつかめてきて、それでだんだん「だれだれの演技が」、とか「どの映画の照明は」とかがおいそれとなく口にできるようになってきた、という・・・いや、映画における「リアル」が了解できるようになってきたということなんだと
三上:ちょっと話がそれるけど、一つ疑問点。うーん、昔の映画ってね、映画の芝居ってね、映画の芝居の自然な演技ってのがあったと思ってたんです。舞台に舞台用の演技があるように。だから現実に自然な会話はあんなふうじゃないだろうと。例えば大島渚の若者を主人公にしたATG時代の映画とか、『秋津温泉』の男と女とかでも。ちょっとたとえがちぐはぐすぎますが。
誠一:長門裕之と岡田茉莉子
三上:そう。でも昔のドキュメンタリーとか見ると、素人の人でも変な(芝居みたいな)喋りかたしてるんですよ!特に若い人。運動とかやってる若い人とか。だから昔の映画も日常のリアリティと乖離してたわけじゃないのかなぁって。
誠一:時代時代のパブリックな言い回しとかがあるんじゃない
三上:うーんパブリック。。
誠一:あいかわらず時代もクソもないのは「政治演説」かしら。新潟の田中親子とかはちょっと逸脱している。
三上:でもインタビューとかですよ?
誠一:今と違って、カメラを向けられるということはそれだけでパブリックなことだったのではないか。運動系は特にパブリックを意識しないといけないから。
でも、昔でも日常と映画のリアリティってやっぱり違うでしょう。今とあんまり変わらないんじゃないか。方言とか地域性は別にして
三上:あーなるほど。そうなのかなぁ。
誠一:う〜ん、こればっかりは誰に聞いても証拠にならないから、50年ぐらい前に隠し撮りでだれかお茶の間とか記録してたらわかるけど
三上:そうそう。
誠一:という話題と全然関係ないけど、いきなり転換しちゃいます。取材記事中にもあるように、CINEMA
ENCOUNTER SPACEvol.16 吉田喜重非劇場系作品特集‘05年初春にカミングスーン予定です。
三上:あ、言ってましたねそれ。かなり貴重なのでは?
誠一:
企画モノのドキュメンタリー作品など。東京特集上映でもやっていない東京大学のPRビデオはかなり貴重です。
三上:へぇーそんなのあるのか!
誠一:これがその存在は知っているんだけど、ほとんど誰も見てない(笑)。これはフィクションでもあるらしいので、ドキュメンタリーとは言い切れないんですが。漱石の時代ぐらいの男女が出会うみたいです。東大で。
三上:超短編?
誠一:いや、1時間くらい。
三上:ほうほう。もう上映決定?
誠一:一応吉田氏からは了承いただいている状態。う〜ん、最終的に企画の具体案を出して、権利問題などクリアできたら確定ってとこでしょうか。東大作品だけはどうなるかまだまったく分からない状態。
三上:楽しみすね。
誠一:さっき三上君から「イビツ」って言われた時は「しめた」と思っちゃいました。
三上:あ、言いましたね。
誠一:まさに。そうなんです。エンカウンター的には、今まさに「自主映画の歪(イビツ)なる挑戦」シリーズの渦中なわけなんですね。
三上:イビツなものってのは惹かれちゃうと思うんですよね。そのクレパスの底が見えないと、余計に。比ゆ的表現ですが。
誠一:逆に「イビツだ」と感じる方は果たして正常なのか、ということもあると思うんだけどね。これは言い過ぎると怖いのであんまり言わないけど、「イビツ」を見る側、見られる側の間にその言葉自体を置いてしまおうと思っちゃった。
三上:それは難しいっすね。何か権力のにおいがしますね。
誠一:権力は「イビツ」を指差すものです。「これがそうだ」と。だから、じゃあその「権力」がそもそもイビツだったらみんなどうすんねん、と。言い過ぎた。
三上:お、フーコー風指摘。いや、そうでもないか。
誠一:で、それならイビツなものをまず見てみましょう、と。
やっぱりイビツと感じるか、いや、そうでもないととるかは時代の選択でもあるから、そこに放り出したいものをこのシリーズでは企画しようということになってます。
三上:田中審美眼が問われる。
誠一:いやいや、僕自身がイビツと感じるかどうかということでもないんすよ。いまのところ誰もイビツだと思ってないものでもあえて突っ込んだりする場合もある。一回目(10月)の『be
found dead』なんてそうだし。
三上:そうなの?その選定基準とわ。
誠一:基準は、単純な賛美や評価だけではすまされない企画、ということです。どこかで引っかかることが必要。
三上:なるほど。それでも大変そうっすねー。相当。
誠一:もっというと、ひとつの作品が文句なくすばらしいというのは、ある意味、そのとき、その場所での評価でもあるわけで(なかには普遍的な価値を見出せるものもあるけど)、そういう観点と「自主映画」という絶えず存在つつ、しかも未然形でありつづけるフィールドで何が行われていて、何がこれから起きるのか、ということをあぶりだせるようにしたいという、よくわからんことを漠然と考えてます。お恥ずかしい。
三上:対立する価値観、ではないか。ある断面を切りとると。そしてそれは切り取られた断面に過ぎないということに自覚的に提示すると。
誠一:そうですねー、で、見に来てくれた人は、自分なりの「今」をつかんでほしいんです。
そのためにこちらからも、できるだけ「今、やっとかないと」というものをやろうとしてます。たとえば高校生の時に『戒厳令』見たら、こりゃあ人生変わるわな。これは期待を込めてですが関西の高校生の一人か二人でも、間違って(?)今観たらそうなるんじゃないかしら。
三上:一つの作品との出会いがその人の世界を変えることがありますからね。それは映画も音楽も書物も絵画もそうでしょうな。
誠一:『煉獄エロイカ』を中学生の時に見ていたらきっと、相当高度なギャグセンスを身につけられたのではないかとも思う。
三上:ははは。屈折しますよ。
誠一:いや、あれは本当にギャグ映画としても見られるので。だってほら、「どういうふうに観てもいいんですよ」って。
了
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